星の合図

すべてが恩寵。
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可塑性を感じて。

「可塑性」って検索結果を何回読んでも理解できない。

粘土みたいに修復可能な脳の状態?

一度壊れた動作など、失われた機能が

元に戻る?という意味合いで我が家で使用されている語だ。

 

わたしは脳内出血及び精神科への入院を経て

退院時に転倒し、玄関で動けなくなり一晩を過ごしたことがある。

以来、家事・仕事の一切をスピさんに託し

いえ、「託した」と表せば綺麗すぎる、「ほぼ丸投げ」したのだった。

 

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二年が経過した。あれから少しずつ出来ることが増えていった。

今ではお洗濯を全てわたしが請け負っている。

洗面所に干したパンツ(乾いている)を取り込んでない

ことをスピさんに「パンツ、しまっとくよ〜」とからかわれることぐらい。

 

また厨房班として朝の野菜炒めの野菜切り・味噌汁のつくり置き、

翌朝の米飯のタイマー炊飯をしかけることが出来るようになった。

 

そこで「可塑性だね」って表現される。一回出来なかったことが

また出来るようになる。壊れた粘土細工が修復され再現される。

 

過去できていたことだから元に戻る。

昨年度は白菜が切れなかったが今は包丁使いを難なくこなしている。

 

散歩に出る。カメラを構えて写真を撮る。覚束ないながらも撮影できてる。

これも可塑性に入るんだろうか。昔できていたことだから蘇ったのだろうか。

 

粘土細工は脳の働きとつながってわたしを立たせているのだろうか。

激しい運動には向かない。足元が危ない。

だが、これは年齢で順当あるいは妥当な結果だと思うのだった。

 

公園で元気にお父さんへ駆けていく小さな娘さんを見た。

あんなふうに走ることが楽しくてしかたない記憶は鮮烈に在る。

現在は夫と二人「幸せだね」と確かめるように暮らしている。

わたしの真ん中から心から湧き出る想い、それに尽きるような日々だ。


妹よ。

わたしの実家での出来事は病院関係含め、
わたしが東京へ来る遠心力として機能したのだと考えます。
何ひとつ欠けても今につながらないから。

パズルピースの最終形。

最後のひとかけらは妹がキーパーソンになって
実際よく働いてくれました。
幼い頃、いじめてごめんね。
悪魔のような姉でごめんなさい。
荷物をまとめて送ってくれてその働きのありがたさを
噛み締めました。
可愛い甥っ子たちもすくすく成長されて伯母ちゃんは嬉しいよ。
いい春になったね。おめでとう。

アカシジアは歩いて歩いて逃す。

アカシジア。なると悪寒がする。
身体じゅうがふるえてる。椅子になど座っていられない。
焦燥感。心臓が口から出そう。
ひたすら歩いて逃すしかない。
階段をのぼり下りするわたしを気味悪がって母は、
「薬、替えてもらったらぁ〜」と声をかけた。
アカシジアに関しては薬が代わることはなかった。
「ふるえ止め」としてアキネトンとピレチアが追加されただけだ。
しかもあまり効かない。気休め程度だ。
後に聞いたことだが、ロドピンは「少なくても多くても
アカシジアは出ます」東京の担当医はそう仰った。
わたしのロドピン適性範囲はきっと幅が狭くて微妙なんだと思う。
当時の院長先生に「どういった工夫ができるでしょうか?
例えば食べるものとか」と質問をしてみたのだが、
脳内の化学反応の範疇なのか首を横にふるのみだった。

*現在のロドピンはアカシジアになりません。
クラシックタイプのお薬のみ、なるようです。

 

苦しんだ、副作用との闘い。

わたしの現在の病名は統合失調症だ。
東京へ引っ越してから付けられた病名で
故郷では非定型精神病だった。
ここへ来てからわりとよく聞く名前になったこと。
ホッと安心したことを覚えている。

わたしは10代の頃から精神薬を服用している。
両親、特に父親の理解の範囲を超える娘だったらしく、
とにかくおかしい(と彼は感じる)ので
末の妹も入院したA病院にわたしを連れていくように妻に命じた。
わたしの母も夫に逆らわないタイプで
また母の弟も病がちだったために自信がなかったのだろう、
母もわたしを病院へさしだし、薬漬けにした。

血液検査で肝臓の数値がちょっと悪い、とA病院で言われて
内科で肝臓を調べてもらったら、10代からの薬の服用の影響でしょう、と
卵が先かニワトリが先か、みたいな話になったので
しかたねぇ〜なぁ〜という暗澹たる気持ちになった。

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A病院で副作用アカシジアになり、不調を訴えるも医師は揃って
改善策をくれなかった。
医師は薬を整えてくれないものだと深く心に残った。

そうこうしているうちに高血圧の状況は進んでいった。
わたしは高血圧の薬も拒否した。
何せ医師は不具合を改善してくれないものだから、
ネットで調べるとさまざまな副作用がヒットする。

わたしの愚かなところは、依怙地になる点だ。
高血圧は母から、あるいは実家の皆からの遺伝要素が高い病気だ。
父も最期に脳内出血を起こして急逝した。

わたしも脳内出血で救急搬送されて、脳外科に入院した。
幸い軽めの脳内出血だったらしい。
そこで服用したお薬は何の副作用もみせなかった。
薬じたいが現代では進化をみせて精妙なものに変わっていた。

アカシジアは絶滅してはいないらしい。
何かの薬に反応してかの副作用に襲われた人々は
未だに歩いて逃すしかすべがないらしい。


 

昭和、冬。初めての入院。

故郷のA病院は国立だ。
以前にも書いたがわたしの通っている中学の学区内に
建物がある。
入院したのは16才。高校1年の頃。
同室になった他の3人はみんな大人で、
身の回りのことをそれぞれ整然とやっていた。
わたしは親元を初めて離れて
窓の景色に中学の同級生のお家を見て溜息をついた。
わたしは病棟で最年少だったので、
「可愛いねぇ」と可愛がられたり、
また片づけが下手だったので、
「お家でやってこなかったんでしょ」と
いびられたりもした。
年の近い子は妙に潔癖症でそばに近寄ってほしくない、
そういうそぶりを見せていた。
また、昼間から眠っていると、
「夜、眠れなくなるよ」と暗に起きなさい、と
せっつかれたりした。
何せここは「退院したい、って言わなくなったら退院だよ」
とわけのわからない説明を受けて、
自分では何一つ決められないのだった。
一週間で退院できると思い込んでいたわたしは
いつ退院できるか「わからない」状況にショックを受けた。

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「看護婦さんの言うことをきいて
規則正しく暮らすこと」「自主性を持って行動すること」
当時のわたしにはわからなかった。
布団に潜って時間をやりすごしたかったのだが、
それも許されない。
自宅から持ってきてもらった赤毛のアンは
自宅の自分の部屋以外では読み進めなかった。
病院のテレビは他の人々のチャンネル争いに
勝てなかった。
また冬場だったのに、暖房の工事が始まっていて、
北側が終わって南側の病室の工事になっていた。
なぜ、暖房が必要な時期に工事なんてするのだろう。
病棟はむかし結核患者専門の病棟だったらしく、
南側の部屋でも寒々とした印象の古い建物だった。
入り口は障子戸だった。
わたしは障子に穴を開けてしまい、
年末の大掃除の時期に穴を埋めるように張替えの作業をした。
暖房が完備されるまでテレビ室にこたつが設置されていた。
工事に関係のない部屋のひともこたつにあたっていたが
「わたしの部屋が暖かくないもの!」と
無理からこたつを使用していた。
おやつを奪い去っていく勢いのあるおばさんに誰も逆らえないのだった。
こたつもまた同様に彼女の思いのままだ。誰もつっこめない。

そうして入院生活を送っているわたしに
アカシジアが襲うようになる。その話はまた、別の機会に。

腰かけてするラジオ体操。

午後、体操をしている。
ラジオ体操を椅子に腰掛けてする。
おかげで50肩がおおかた良くなっているな、と気づけた。
なんなく上がるからだ。
左肩が痛いのだが、眠るとき左を向かなければ体勢に影響は無い。

ラジオ体操のあとは「みんなの体操」を続けて行う。
これも、椅子に腰掛けてやる。
通院の時に先生に伝えたら椅子のところで
「そうそう、そうしたほうがいいわよ」と
同意を得た。椅子に座っての体操は有効だと。

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スピさんからも「体操、続いているね」
血圧手帳に記しているので。
ラジオ体操のしるし「R」とみんなの体操のしるし「み」と。
いい気分転換になる。
ちなみに、みんなの体操はデイケアでもやっていた
おなじみの動きだった。

もっと早くに、高血圧治療していれば良かった。

もっと早くに、高血圧治療していれば良かった。
ネットの薬の嘘に惑わされて服用を決めなかったわたしは
軽い脳内出血で脳外科に緊急搬送された。
そこで投薬された血圧のお薬は何の副作用も見せず、
高血圧だった夫も血圧治療を始めた。
「もっと早くに高血圧治療していれば良かった」
なんで服用が遅れたかと言うと、
精神薬の改善が遅々として進まなかったからだ。
現代では精神薬もなんの副作用も無い。
30年、かかった。30年の遠回りを終えて今、薬は欠かせない。
ネットのネガティブな情報を鵜呑みにして拒否し続けてきた
自分を愚かだと思う。
そして、すべてのお薬を改善・研究されている人々に
熱い感謝を捧げたい。ありがとうございます。

そんなことより、アカシジア。

わたしはアカシジア経験者だ。
わからないというかたはググってください。
副作用のひとつで、主に身体が震える。
初の入院でアカシジアになった時、
座っていられなくなった。
歩いて歩いて逃さなければならない。

歩かないと気持ち悪い。
布団でじっとしていられれば
どんなに良かったことだろう。

1・座っていられない
2・身体がふるえる
3・足は関係ない(足がむずむずしますか?と医師に聞かれたので)
4・書き文字が不安定になる

30年投薬を続けていて、どうやら
ロドピンという薬に反応してアカシジアになるらしい、
ということがわかった。
「アカシジア」という副作用名は
たまたま目にした診断書に書かれてあった。

お薬手帳もない頃からの長い戦い。
お薬が精妙化して進歩して
アカシジアは出なくなった。
研究をしてくださったかたに深い感謝を。

30年が、かかった。
あの気持ち悪さ、心地悪さから解放され、
晴れ晴れとした50代を迎えた。

思えば16才の我儘盛りにはキツかった。
担当医によってはアカシジアが出ない処方があった。
「君は薬を飲まなくていい」という判断をした医師も居た。

いずれ、断薬は危険だ。身を持って知った。
「嫌なら飲まなければいい」もうそういう局面ではない。
薬に頼らざるを得ない、いわば「お守り」状態だ。
だから、わたしは薬を飲む。
全然知らないひとに詳細を知らないひとに
「辞められたらいかがですか」
「絶対に治るから薬は飲んだほうがいい」
軽がるしく気安く言われたくはない。

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その時その時の暮らしぶりに服薬を調整していく生活が
あまりに長すぎた。お守りもしっかり効いてくれたら感謝できる。

そんなことよりアカシジア。
絶滅してはいないのですよね。
まっただなかのあなたに、エールを送ります。
あなたの薬の飲み方を替えずに対処する道が見つかりますように。
できれば平和的な解決が見つかりますように。




 

オセロの最終局面。

わたしは両親の無理解で
10代の頃から精神薬をあてがわれました。
特に父などは末の妹が、わたしには叔母にあたります、
「○○病院の薬を飲んでいると本当にイイの!」と
絶賛の嵐で、彼女は良心的な医師に恵まれたのでしょう、
そんなわけで両親ともども、医者・病院・薬の
100パーセント頼りで、不可解な娘の行動を
シャットアウトしてきました。

また○○病院はわたしの中学の学区内でした。
16才のときに初の入院生活を送ることになったのですが、
格子の嵌った窓から同級生の家が見えるのですね。
あれは切なかったです。
学区内ということで、わたしの噂をききつけた当時のナースたちから
「男で問題起こしてきたんだってねぇ」と
ぐるり囲まれ怖い想いをしました。

また昭和の女子たちは火曜日のリネン交換が苦手で苦手で
わたしもコツがつかめるまで苦労しました。
初めての入院でリネンは「これでもか」と糊付けされており
糊付けを剥がすのでさえ大儀でした。

「不潔なリネンは交換してくださーい!」
なんという言い草でしょう。
「ふけつなリネン」現代なら苦情の対象になるのではないでしょうか。

ある時の入院で「入院生活でお困りの点がありましたら
こちらに連絡を」と電話番号の紙が掲示されていた時期が
ありました。そちらに電話しようとした猛者がいたのですが
かけようとしたらすぐナースが張り紙を剥がした、と
言うではありませんか。
何の意味も無い空疎なデモンストレーションだっただけ?

○○病院は国立でした。

2014年の冬に実に10数年ぶりに入院しましたが、
平成の風を感じました。
リネン交換は清掃の職員がすべて交換してくれて、
男女別だった病棟は男女混合に変わり、
建物も近代的でキレイで清潔で、
熱湯などを使わない(昭和の病院では熱湯が出る蛇口があった)
よく考えられた環境でした。
小泉内閣のときからこんなふうに当たり障りのない
環境になったとのことで、新聞を読んでいるおっちゃんから聞きました。

我が母上は未だに元気なのですが、
何かすると「○○病院へ行くか?」と脅してくるので、
わたしは実家へよりつかなくなりました。
東京へ来たのも環境からの遠心力が膨大にあって
ためらいはいっこもありませんでした。

母への感謝は産んでくれて育ててくれてありがとう、
でも、苦い想いなんだ、それも自分で消化(昇華かな)
しなくてはならない領域で、
女同士の軋轢と溝は深いままです。

わたしは現在、母の嫌う東京で暮らしています。
夫は「嫉妬から言うのだから」とたしなめてくれます。
東京は遠すぎて判らないから出た言葉なんだよ、と解説してくれました。

父は早くに他界して十数年になります。
「お前とオレは似ていたんだな」とわたしと同じように
ひきこもって仕事を定年を残して辞めてしまいました。
そして母の付き添いのもと○○病院からお薬をもらいに行っていました。
父の病名はわかりません。

わたしは統合失調症です。
その前は非定型精神病でした。
前者は東京に来てから、後者は故郷で付けられた病名で
東京での病名は「ああ、わりとポピュラーにきく名前だ」と
ほっと肩の荷が下りました。

またわたしは高血圧の薬も飲んでいます。
遺伝です。主に実家の家族ぜんたいからの高血圧です。
味つけの濃い東北って悲しいですね。

また理不尽にふりかかってきた副作用の話になると
長引くので後日、分けて書くことにしますね。

わたしは16才当時、死にたがりでした。
今ではそんなとんでもない、オセロの最終局面に来て
黒ばかりだったゲーム盤が白に一気に変わるような心持ちでいます。
生き抜いてやる。
そしてこれで輪廻転生を終える。卒業制作を
夫=彼と共に作ろうじゃないか、と闘志を燃やしています。




 

こころのひろさ。

わたしは統合失調症です。
こちらに移り住んでから、つけられた病名で、
故郷では非定型精神病でした。
引っ越してから、まぁわりとポピュラーな病名なんだな、という
気楽な感じからスタートしました。

ふるさとに帰るたびに
実家の母などは「○○病院、行くか?」と
水をむけてくるので今ではわたしは
めったに寄り付きません。
心の病気が薬で治るか?
30年以上服薬してきて、
さまざまな想いをしてきました。
特に両親など100パー病院頼りで、
それにも嫌気がさして
たまらなかったものですから。

またわたしは「薬をのめ」「薬をのまないほうがいい」
そのどちらのアドバイスも素直にきけません。
きけば必ず複雑な想いに取り巻かれます。

世の中には状態が落ち着いている、
「寛解」ということがあるようですが、
わたしは夢のまた夢。という気持ちです。
薬に頼らず精神的に自立する、と言えば
なにかおとぎばなしのような蜃気楼をつかむような気がします。

2014年の冬、○○病院へ実に10数年ぶりに入院しました。
病棟は男女混合、その新しいスタイルに平成を感じました。
再婚した夫などは病の前段階の妻を知っているので
退院が決まった時には
「医学的な奇跡を見るようです」と担当医に述べたそうです。

わたしは退院時から歩行に問題があり、
フラつく足取りで近所の八百屋に行き、2回転倒し、
また家の中で動けなくなって一夜を明かしました。
あの時助けてくださった通りすがりの皆さん、本当に感謝いたしております。

最近ではすべて任せっきりだった家事労働を
シェアできるようになり、季節も変わって体調も楽になりました。
血圧のお薬をもらって服用している脳外科で
先ごろ、健康診断をしていただきました。
採血・採尿・レントゲン・心電図。
どこも目立った異常は見られず健康体であることが判明し、
スピさんと手をとりあって歓びあいました。

30年、かかった。お薬の精妙化に。実感は深いです。
「のめ」「のまないで」現代は服用して正解なのだと思えます。
わたしは一生をかけて「こころのひろさ」を問われています。

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